東京撃剣倶楽部
基礎は形稽古を行う一方で、現剣道のように切り返し、打ち込みを行うことから始まります。
切り返しは正面を打ってから、體を左右に捌きながら左右面を繰り返すような形態で、今の一般的にみる切り返しとは少し違います。
打ち込みについては次のような記述があります。
「打ち込みは一足一刀で踏み出て、打ち、都度一足下がる。」
この表現を見るに現剣道とは少し違う姿でやっていたのではないかと想像します。
現剣道でも基礎打ち練習をする際は一足出て一つ打って一足下がるをやりますが、神道扶桑流のここでいう打ち込みは竹刀を上下素振りのようにする打ちではなく、手先でちょこ打ちをしない、現剣道でも見かける良質の差し面のような打ち込みです。その上で一足出、打ち、一足下がるので、打ち終わりに継足で前方に通り過ぎるような打ちをしていないように思います。
「体当たりは右肩を突き出し、目標を相手の腹に置き、敵の體を下から上に差し上げる心持で當たる。」
体当たりについても、現剣道、また古武道を名乗る流派で撃剣として練習されているものを見ても腹で突きあてるものを体当たりとしているのをよく見かけます。
私達の撃剣では腹で当たりに行く前に竹刀があるため、起こりえない形と考えているので、神道扶桑流のこの資料で示す体当たりの方が腑に落ちます。
打ち込み、体当たりのこの辺りは、東京撃剣倶楽部としても参考にさせていただいている考え方です。
「鍔競合いは真剣勝負に於いては刀尖が合えば既に勝敗が決すると云われている位であるから斯様な事がありよう筈がなく、殊に互いが相手の首に竹刀を押し当て、以て押し合い倒し合いなどするような事は絶対あるべき筈がない。元来鍔競合いは鍔元で押し合うのではなくして、刀腹を以て敵の刀を押圧し、敵の働きの自由を拘束するのである。而して敵が我に押圧を加え来た時には、我は刀腹を以てこれに応じ、機を見て體を交わし敵の體が崩れたる瞬間直ちにつけ入って技を施さねばならぬ。」
鍔競合いについては、少し否定的なようです。
私達の考えでは、鍔競合いになることが多いものと思っています。殴り合いの喧嘩で多くがもみ合いになると聞きますが、これと同じことになるのではないかと考えています。
ですが、鍔競合いそのものとしては上記でいう刀腹で行われるというものがそれに近い状態で、この状態で斬り合い、組合が起こりえるのです。
天然理心流なども柔術が深く剣術形に組み込まれているので、間合いの近い剣術だと思うのですが、このような状況を想定したものと想像しています。
神道扶桑流としては組打は両者が竹刀を離した処から起り来るものであると考えていたようです。
「真剣勝負であれば、組み敷き、右手差しを抜いて首を掻く、試合に於いては、腕を逆に捕るか、面を捻って動くを得ざらしむるか、面を捻り取る事を以て勝とする。しかし、これは危険で尚且つ、元来剣道は剣を取って勝敗を争うものであるから、組打で以て勝敗を争うことはなるべく避けねばならぬ。併し乍ら、ある場合には組打を必要とすることがあるのであるから、平生組打の練習をしておくことは元より必要である。剣柔二道は両々相俟って用を為すものなのであるから、剣を学びたるものは亦大いに柔術を心得て置くことが肝要である。」
このように、組打そのものを排除はせず、組打の稽古の必要性を謳っています。
理想としては剣道であるから、剣で事を決めるべきだが、状況は様々であるのでその準備はするべきという立ち位置でしょうか。
神道扶桑流でも体当たり、足搦み、腰投げなどが鍔競合いの中で行われることが想定されています。
私達も剣を大事にしますが、4~5割くらいで鍔競合い、組打になることがあり、戦術的にくっついて操作を促すことを目指します。ですが、竹刀を離して、極める捻じるにあまり持って行かず、抑え込みをして斬るという仕草をすることが多いです。
私達の撃剣では可能な限り刀を離しません。