試合を行わないということ


J-STAGEで「旧制第一高等学校撃剣部の活動:無検証試合の提唱(佐藤 皓也:2024)」という論文を拝見しました。

 

それによると剣道創成期では、無検証試合という概念があったそうです。これは北辰一刀流の塩谷時敏という人が提唱し、旧制第一高等学校の撃剣部が採用したもので、審判を置かずに行う試合で、試合者同士で有効打突を判断するというものだったようです。

 

その指導理念として『「無檢證とは吾々が一個の人格として自己を自覺して自分の事は自分でやると言ふ事」であり,「一個の人格として正しく自覺し自己を認識し自分で自分の正しい判斷をして行く精神,自分で道を開いて行く精神,今迄の他人の強制から離れて自ら始めて行く精神を養成する」と無検証による人格の形成についても述べている.一高の学生が学ぶ剣道は,「勝負の爲の劍でもなければ劍術でもない」「學問の爲の劍道」であり,独立した人間としての自覚と適正な判断の養成を目指した.』とあります。

 

東京撃剣倶楽部では、このような高尚な理念はありませんが、私達が主に行っている自由に打ち合う「自由打ち」でも、審判などを置いて勝敗を決する所謂試合を行いません。

その一番の理由は試合用の動きを生み出さないためです。

 

 

 

試合とするとき、何かしらの勝敗の決め手を設定する必要があります。

剣道のようなポイント制であったり、倒して抑え込んだり、極めたりすることであったり、もしかしたら、美しさ、技術難易度を競う体操やフィギアスケートなどのように、例えば戦いの美しさなどを競うことになったりするかもしれません。

 

どんな決まり事であっても、それを設定した時点で、そこが目的になり、審判を置くことによって、そこへのアピール動作を行うことが始まります。

こうなると元々ある目的から外れていくことになり、どんなに気剣体の一致と言葉でいっても、うまく当てて、ポイントになってしまえば、動きがどんどん壊れていきます。

また、打たれなければよいという動作になり、腰の引けたちょこ打ちをしてみたり、竹刀が体に触れていても構わず突っ込んでいったりすることになってしまいます。

 

私達は極力このようなことにならない撃剣を目指しています。

 

 

 

審判を置かなくても、各々の中でやり取りしながら、打った打たれたは明確です。

 

むしろ審判より正確な判断ができるのではないかと思います。当たっていても、今のは小手先打ちで斬れてなかった、今の投げでは技としてはどうだっただろうなど、目的を見失っていなければ、自分自身の中で判断ができます。

そういうことが出来る状態を自分に保つ必要があります。熱くなり、何をやったんだかわからなくならないくらいの冷静さの中で打ち合いをすることが求められます。

 

武術ですので、相手より先に決定打を打ち込むという作業は常に付きまといます。打たれてもいいといういい加減さでやるのではなく、武術である以上は、相手にとられる前にとるという心構えは忘れずにいなければなりません。

 

それはなかなかに難しく、実現の道は険しいですが、これを目指すことは武術的にみても求められる理想的な状態なのではないかと考えています。

 

 

 

幕末に竹刀打ち込み稽古が流行りだし、道場を訪ね歩いて稽古する武者修行の時でさえ、特に審判が置かれることはなく、各々の中で顧みてあの人はうまかった、強かったと判断するような雰囲気があったそうです。「剣術修行の旅日記(永井義男:2023)」

冒頭に紹介させていただいた「旧制第一高等学校撃剣部の活動:無検証試合の提唱(佐藤 皓也:2024)」の中でも、当時の剣術家に「謙虚で洗練された試合態度」が見られ、審判者を置かずとも、互いを尊重し認め合う他流試合の「マナー的なもの」があった旨が記述されています。

 

このような雰囲気だと思うのです。