明治期の武術体操法


私の無知を武道学研究の論文に頼らせていただくと「明治期における武術体操法について(その一)(その二):中村民雄」に「近代学校教育制度が発足した明治5年(1872)以来、武術を学校体育の正課教材に編入させようとする在野の武術家達の運動は根強く続けられていた。」とあります。

 

更に要約すると、それに反して文部省では、体育を合理的に振興し、健康や運動効果の面から科学的に考察しようとする「医学・生理学的体育観」が支配的で、武術はあくまでも課外で行う遊戯種目であるという態度が堅持されていたそうです。

 

当時、日清戦争後のナショナリズムの高揚とともに、武術を正課体育に編入させようとする声は一段と強くなっていく中で、明治29年(1896)、文部省は学校衛生顧問会議に対し、「撃剣柔術の利害調査」を諮問しました。しかし、その結果は、武術を正課教材として「課スルヲ得ズ」というものでした。

 

ここに、それまでのような外来の体操との対決ではなく、妥協によって、局面を打開しようとする和洋折衷の「武術体操法」が現われてくるようになったようです。

 

そして「この武術体操法には、大きく分けて二つの系統のもの」があり、一つは、軍隊・武術家から主張されたもので、兵式体操(あるいは教練)との妥協、もしくはこれに代わって、「武徳」を養成するものが武術体操法である」とするものです。

 

「そこでは、一流一派という枠は外され、日本の軍隊として、中でも優秀なる歩兵を養成するための手段として武術が必要であることが自覚され出たし」ました。「教授法もそれまでのような1対1あるいは1対数人といったものではなく、体操式に1人の教師が数十人の生徒を号令によって一斉に教えることができる方法が工夫されて」いったのです。あとで挙げさせていただく橋本新太郎著の『新案撃剣体操法(明治29年)』などはまさにその代表的なものでした。

 

他方で、「現場の教育者の中からは、普通体操法が形式化してしまい、体操さえすれば体育は完全であるという誤った風潮が強くなってきたことに対し、何らかの改良が必要であることが痛感されはじめ」、「こうした現場の声の反映として生まれてきたのが、小沢卯之助をはじめとする現場教師からの武術体操法」というものだったそうです。

 

政府によって、非科学的だということで課外で行う遊戯と位置付けられ、昔の武術では個人教育であったものが、体操化によって、集団演習法に変わって、状況に応じながら生き残りを図っていく様子がわかります。

 

ここでご紹介する資料は主に「史料明治武道史(渡辺一郎編:昭和46年)」を元にさせていただいていますが、ここでも集団での号令の仕方などから、その教育方法に含まれていることがあり、体操化、集団教育化が意識されているのが見受けられます。

 

 

東京撃剣倶楽部はもちろん、学校教育とか軍隊訓練に入り込もうという意図は全くありません。むしろ体操という言葉から、人間形成、精神修養のような重苦しい謳い文句を取り除き、遊戯であることを提唱する試みをしています。

当たり前にこの国を愛する気持ちはあるものの、当時の人々の思いとは逆を行くようで大変恐縮ではありますが、総合体操となりえる撃剣の楽しさを広めることが出来れば幸いと思っています。