気術は気合術に非ず


ついでに表木刀に付与したとされる気術について述べてみます。

これについて、複数の史料を合わせて考慮すると、大声による掛け声であったり、気迫や気合で威圧するようなことではないように思います。

 

掛け声や気迫などが必要ないということではなく、気術はそういうことではないということです。

因みに私達の撃剣ではことさらに大声を出すような気合をかけたりはしていません。

 

天然理心流二代目を継いだ三助の逸話に相手を身動きできなくする催眠術のようなものが登場します。これを「気合術」と呼んだりしていますが、この「気合術」と、伝書上に記載されている「気術」がよく混同されているように思います。

 

気合術」は「武術天然理心流」の著者で天然理心流研究の第一人者である小島政孝先生が、この術の存在を著書の中で便宜上そのように命名したものです。

天然理心流は剣術、柔術、棍術、気合術の四術あったと言われたりしますが、私の把握する限りでは、古文書上に気合術などの記述(き、気術ではなく…)は出てきません。流祖内蔵助や三助がそれをなんと呼んでいたのかは明確ではないはずです。ただそういった術があったということだけなのです。

 

表木刀に付与されたとする気術とは分けて考えなくてはいけません。

 

今は知識としてこの言葉を先に知ってしまっている状態ですが、本来、気術等の文言は、中極位の免状で初めて登場します。気術について、ここでは詳細は避けますが、当時は切紙、目録、中極位を終了して初めて言葉として付与され、認識され、そこまで積み上げた練度を土台にして感得され得るようになっていたのだろうと思います。

 

逆に言えば気術とはそういう類のものであり、それについて書かれた部分を読むに、その獲得の道筋は形の中に示されているように私は捉えています。

つまり、気術とは明確なる技術であって、川向うへ声を轟かすのとはまた別のことなのだと思います。